北陸電力 西武生変電所と京福連絡線の歴史(福井県越前市)

西武生変電所は越前市中央にある77kVの配電用変電所です。

西武生変電所の場所と地図

西武生変電所

越前市を南北に走る日野川沿いに有るJR武生駅から西に伸びる県道190号線沿いにあります。

西武生変電所について

銘板?というか看板

旧武生市の名前を冠する変電所といえばここから日野川を挟んで北東にあるマンモス変電所「新武生変電所」ですが、この西武生変電所とは直接接続はありません。

西武生線52番最終鉄塔

西武生変電所北側 西武生線最終鉄塔

北側は北の丹生変電所から南下してきた西武生線の最終鉄塔があります。

西武生線の最終は52番

番数は上で確認できました。52番です。銘板は若番が奥まった所にあり確認はできません。

西武生線回線札

しかし変電所の引き留め箇所を見るとちゃんと西武生線の回線札があるのが外からも見て取れます。

京福線112番

京福線112番?1975年3月

次は南側の引き留め鉄塔を見てみましょう。こちらは銘板が見えましたが、漢数字のためか22番なのか112番なのかはっきりしません。が、どうみても経路は22基以上ありますので112番で良いのでしょう。名前は、京福線とあります。

西武生変電所ゲートの京福線回線札

変電所のゲートの回線札にも京福線と書かれていました。

京福線112番

番号からわかるとおり、かなりの長距離系統の様です。これが最終なのでしょうか。実は違うのです。次の鉄塔を見てみるとそれはわかります。

京福線113番

京福線112番から南に接続された鉄塔、その頭には111番ではなく113番とあります。

京福線112番番号札

つまり、この112番は最終鉄塔ではなく最初の鉄塔なのです。

京福線はここから出て今庄の国道365号沿いに南下しています。少し追ってみましょう。

京福支線30番

京福支線30番昭和39年11月

日野川をのぼり、越前市下平吹町のあたりで京福線に東からの京福支線が合流します。銘板は京福支線30番 昭和39年11月とありました。

京福支線30番(クリックで拡大)

通常、このような烏帽子形鉄塔は1回線、つまり送電線3本でよく使われるのですが、この京福支線30番は2回線6本が直列に懸架されています。

京福支線は新武生変電所からここまで来て京福線に直接接続されています。1番鉄塔については新武生変電所の記事を御覧ください。

京福線128番と127番

京福線128番

京福支線と接続される京福線は128番です。西武生変電所から数えて17本目の鉄塔となります。分岐鉄塔の為か回線が縦に接続されている棒のような形の鉄塔です。

京福線127番

北を見返すとそこに立つ京福線は127番。確かに若番です。

京福線127番銘板

こちらは銘板をはっきりと撮影できました。1981年3月とあります。

京福線と北陸幹線のクロスポイント

京福線と北陸幹線のクロスポイント(クリックで拡大)

さらに南下すると面白いものがみれました。北陸幹線の下を京福線が潜っているのです。

場所は南越前町に入った辺り。北側から山を降りてくる北陸幹線と京福線が交わっています。

京福線141番

通常、古い系統に新しい系統を交わらせるには上を通すことが多いのですが、ここでは京福線の方がドラキュラ鉄塔を使って送電線の高さを下げて北陸幹線の下に送電線を送り込んでいます。

低い京福線140番

低くなった送電線を受け止めるのはこの京福線140番。こちらも直列に2回線6本を支持しています。平野部ではちょっと危険な感じもしますが、まだ77kVなのでそれほど高さはシビアではないのでしょうね。

京福線はこのまま南下、湯尾変電所に接続されています。

京福線の歴史

西武生変電所

北陸地方電気事業百年史に記述がないかと見てみたのですが、現、京福線それ自体の情報はありませんでした。

一致する系統として京都電灯が昭和2年に建設した150km京福送電連絡線がそれに当たりそうです。

当時、昼間は福井の電気需要、夜は京都の電気需要が多いことでそれぞれ融通させる案がありました。

そして京都横大路変電所と大津膳所変電所の大津送電線17km,山科開閉所から堅田変電所に至る送電線17km、堅田変電所から福井変電所に至る京福送電線119km、福井変電所から花房開閉所に至る大野送電線35kmの長距離系統が建設されたわけです。

昭和7年の送電系統図には滋賀方向から敦賀、武生経由で福井に入る系統として「京福送電線」と記されています。その後昭和27年には幹線が出来ており、その時点での名称が「京福線」に変更されています。

京都電灯福井支社はその間の戦時の時期より北陸配電・日本発送電を経由して戦後、現在の北陸電力となりました。

先程見たように時期的には大同電力系の昭和電力が建設した北陸幹線が昭和4年、その下を通過しているということは現在の京福線はそれより後に作りなおされたものと思われます。どうして1番から採番しなおさずに112番からとしたのか、その他の京福送電連絡線のその他の部分は現存しているのか。非常に興味深い系統です。

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