水渕山荘と板屋兵四郎の道から展望台へ (2.69km+164m/石川県金沢市水渕町)
金沢に観光に来たらまず訪れる日本三大名園兼六園。その美しい庭園の景色には池の豊富な水が欠かせません。
しかしこの水、よく考えると不思議なことがわかります。なぜなら兼六園と金沢城は海抜50メートルの小さな山の上にあります。しかし、その両脇を流れる犀川と浅野川の海抜は20メートル足らず。
今ならポンプで汲み上げればよいのですが、この水、350年前からここを流れています。一体どこから来たのでしょう?
答えは(言うのは)簡単で兼六園金沢城高さ海抜50メートルより上の水面から水をひいてくればよいのです。犀川の海抜が50メートルを超える地点は兼六園から約5km離れた金沢市末町あたり。もちろん自然の川の水量は安定しないので、それよりさらに上流に引き込み口を作ることが求められます。
そこでさらに3.5km上流、水面海抜100mの金沢市上辰巳町/水淵町の地点に穴を掘って高度をなるべく落とさないように兼六園金沢城まで犀川の水が引き込まれているというわけです。この経路を辰巳用水といいます。
そして350年前にこの兼六園から8km地点に穴を掘って辰巳用水を設計したのが、技術者・板屋兵四郎なのだそうです。
そんな板屋兵四郎の名を冠した道がここ金沢市水淵町にあります。犀川の西岸、辰巳ダムの手前の水渕町の文学の里/童謡の丘の看板が目印です。
降りる道の横に駐車出来るスペースがあります。
童謡の丘の名の通り、なつかしい童謡がかかれた蓋が並びます。
アニーローリーを紫式部、清少納言の文に当てはめた替え歌などもあり面白いです。小学校の音楽の教科書を思い出させられます。
さて、板屋兵四郎の道はその立て札の上の段の広場にその入口はあります。ここから辰巳用水の旧取水口まで繋がっており、そのまま周回してトンネルの上の山の展望台まで行くことができます。
広場には雉(鶏)取水口の札がありますが、その先は木々があり川すらみえません。かつてはみえていたのでしょうか。
ということで雉(鶏)取水口は板屋兵四郎の道から降りて見るしかなさそうです。(ちなみに現在の取水口はさらに500m程上流の東岩に1855年より移されており、辰巳ダムの展望台より眺めることができます。)
足元は一部ぬかるんでいるのと傾斜がややあるので登山靴がおすすめです。
東側の杉林に山道が作られており尾根を横切る形で進んでいきます。
左には水の流れる音が。木々の隙間から沢が見えます。
途中で分岐。看板が2つ外れています。どっちでしょう。取水口というくらいなのでまず左下へ。
痩せた尾根道を慎重に下りると周りは杉林。
気持ちのいい杉林ですが。足元をよく見て道を見失わないようにしてください。
立て札がありました。「クルミの森」とあります。道はここで終わっています。
すぐ横は河原です。ずいぶん降りてきました。
対岸には滝が見えます。横には人工的な穴が。
これが取水口なのでしょうか?資料の写真とはなんか違うような。
少し散策すると新辰巳発電所が見える場所がありました。こちらの取水パイプは左上から伸びてきています。ちなみにここを通る水はさらに上流8kmの上寺津ダム海抜166mからからトンネルを通ってここ海抜100mまで降りて来ています。現代の辰巳用水といったところでしょうか。
藪気味ですが、沢にまで降りられます。更に散策すると、東側沿いに犀川下流方向に人が通った跡があります。試しに辿ってみると・・・
なにか昔人工的に掘られたような洞穴が見つかりました。藪が多いのとぬかるんでいるので見に来る場合は気をつけてください。
後ほど水渕城展望台に書いてあったのですが、恐らく村の十宝の一つの5トンネルと思われます。
ヘッドライトがあれば中を探索できそうですが、怖くて入る勇気はありませんでした。
クルミの森以降は道らしい道が無いので少し迷いながらも分岐に戻ります。
看板はこれが正解ですね。展望台に向かいましょう。
先程と比べるとずいぶん明るい道が続きます。下はコンクリの様です。
すぐに行き止まり。道はここで消えています。
右手(南側)に少しすすむと向こうに看板らしきものが。
階段がありました。多分こっちです。
向こうに看板が2つ。地図にも出ている林道に出たようです。
林道を左、東方向に進みます。
気持ちのいい竹林と歩きやすい舗装路。先程の藪と比べると天国です。
展望台への階段を発見しました。ちなみにこの林道までは車で行けるので、ここまで自動車で来て展望台だけ見ることもできます。その場合の登りは40m程度。
階段はやがて左へ。新し目のロープが備え付けられています。
さほど急ではないのに親切ですね。林道スタートなら登山靴じゃなくても大丈夫そうです。
第一展望台に付きました。竹のベンチが風情があります。案内板には水渕町についての説明があります。
この水淵町は元石川郡犀川村二十四字の一字で町名は水渕と砂渕の大きな渕の存在が由来と言われています。
加賀藩時代の寛文十一年の村高は十八石、亨保五年は四十六石、特産品は和紙とされております。
家数は明治九年に二十九件、神社一軒で農業に紙漉き業を兼ねる十八家となっており現在は三軒です。
水渕十宝では、1.加賀藩の藩札、2.水渕城、3.辰巳用水取入口、4.陸の柱状節理、5.秘密の5トンネル、6.犀川大岩、7.ケヤキの森、8.韻文学の里五碑、9.童謡の丘九板と九木、10。蛍橋 蛍の郷作りとあります。
さて展望台は2段になっていて上にも階段は続いています。そんなに距離はありません。
第2展望台に到着です。
対岸の上辰巳町はもちろん、遠くは戸室山・キゴ山・医王山、右側には高尾山吉次山が並んでいます。
先程沢から見えた新辰巳発電所の下側施設ですが、こちらからは上側の施設がよく見えます。
新辰巳発電所については入れませんが横に案内板があり詳しい説明が書いてありました。
辰巳発電所は明治33年6月、金沢電気(株)より寺津用水を利用した最大出力240kWの辰巳発電所の運転が開始され、石川県の家庭に初めて電灯がつきました。大正10年には急激な需要の増加に加え不況の深刻化により電気事業と共に辰巳発電所は金沢市に譲渡されました。第二次世界大戦により一旦は国営化されましたが戦後公営電気事業復元に取り組む中、犀川総合開発計画の一つとして昭和38年1月に金沢市の電気事業が許可され、ここに全国で唯一の市営電気事業者が誕生したのです。
またその開発計画にある上水道取水方法の見直しにより辰巳発電所は新辰巳発電所として大きく生まれ変わりました。この新辰巳発電所は平成26年12月に最大出力を6200kWに増強しこれからもクリーンな水力エネルギーを金沢市の家庭へ送り続けます(新辰巳発電所案内板より)
よくみると更に上に階段があります。そういえば「周遊路」とありました。
(先に行っておきますと、GPSと登山靴が無い方はここで引き返したほうが無難です)
ちょっと荒れた階段を登り頂上へ向かいます。
頂上は高台になっています。ここにかつて水渕城が存在したのでしょうか。
一番高度が高そうなところに印がありました。
よく見ると電柱も通っています。西側には村は無いはずですが、地図にある金沢工大の施設への供給用なのでしょうか。
ここからは案内板もなく手探りで進みます。地図上には登山道が南北に通っているので西側の尾根を進めばたどり着くはずです。
やや藪気味の尾根を進むと烏帽子形鉄塔が見えます。寺津線22番です。地図道はもうすぐです。
地図の登山道にでました。下に降りたいところですが残念ながら塞がってるので上から回ります。
やがて舗装路に出てほっとします。ちょうど水淵町の真上です。
この分岐はどちらでもOKです。右に行けばさっきの展望台の入り口に戻り、そこから折り返しスタート地点に至ります。
先程見えた上寺津線22番です。上寺津発電所からの電力は東側、上寺津ダムからの水道管は西側を通ってここまで来ているということですね。ちなみに上寺津線はこの先で辰巳ダムからの新辰巳線と併架され新辰巳発電所に一旦引き込まれます。両方一回戦なので新辰巳線は一見2回線に見えてしまいますが実は上寺津線と併架なわけです。
さて帰ってきたのでついでに文学の里を散歩しましょう。
水渕 文学の里 記念碑
文学の里としての記念碑は5つあります。散策しながら探してみましょう。それぞれ裏には説明書きがあります。
水淵山荘は使われなくなった民家を利用した資料館なのでしょうか。略歴の中にも水淵山荘が出てくるので歴史ある建物なのかもしれません。残念ながらこの日は開いていませんでした。
金子曾政は大正4年県境の金津町に生まれ、福井中学校を経て旅順工科大学に進み、同大講師・同助教授にて敗戦となる。
混乱の渦中に遭遇し中国東北・北朝鮮に4ヶ月抑留される。
妻 伊勢の歌は、そこへ奇跡的に届いた手紙にあり「生還でき今日あるはこの歌の御陰である」と終生肌身離さなかった。
「天作之合」は中国では結婚式のことで、この言葉が日本でも普及すればと語られていた。
この水渕を愛し、よく訪れられていた。平生14年6月ご逝去 85歳
中西舖土 明治40年金沢市に生まれる。本名正勝。昭和12年馬酔木賞。
前田普羅を師糸として句歴七十余年。昭和21年、金沢にて「風」創刊に尽力し出版元が写ったので昭和47年再び金沢から全国発信の「雪垣」を創刊した。
昭和59年「俳句自画像」により泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞。他に北国文化賞、金沢市民文化活動賞、石川県文化功労賞など。
ここ水淵山荘於いて、溢れるばかりの人々に「川と俳句」を講話したおりの即興句である
森美禰 コスモス同人 日本歌人協会会員 現代歌人協会会員 石川県歌人協会副会長
歌集「微微少少」は泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞
平成5年3月29日永眠。享年72歳。遺稿集「ふかい夜ぞらを」出版
米山久子 石浦屋十二代の長女として生まれ県立第一高女を卒業、米山家に嫁ぎ三女をもうける。
大正デモクラシーの頃、短歌紫光社をつくる。「附」「雷鳥」の同人、「あけぼの」「心絃」「白蓉」を出版。婦人参政権運動は市川房枝、山高しげりなどの支援により駒井志づ子と共に婦選会得同盟支部を全国に先駆けて結成
戦後初の衆議院選挙で石川県トップ当選。国会では女性としてさいしょの代表質問を行った。
昭和56年2月、湯河原山荘にて永眠84歳 勲4等瑞宝章受賞
高橋久雄は加賀藩に連なる医家の三男として明治37年桶町にて出生。第四高等学校を経て昭和6年、金沢医科大学(現金沢大学医学部)卒業。同17年同大学小児科助教授後に医恵教授併任。同26年小児科診療所解説。
俳句を「東山」田畑比古、「芦」高橋素十医薬誌「いづみ」水原秋桜子石川県医師会の無影灯句会に投句選を受けた句集に「句屑」「続句屑」の2冊がある。
女医八百子を妻とし一男二女をもうける。この地に親子でよく訪れた。昭和55年11月14日永眠77歳
板屋兵四郎について
史料によると.用水開削にあたって、家老長九郎左門の家臣で毛科半右衛門という者ががかつて伏見川の川セキ築造で功績があったので.これを用いようとしたところ3年前に死んだという。
そこでいろいろ調べた結果、小松のの町人で板屋兵四郎という算勘の達者な者がいるとわかった。これが兵四郎登用にる経緯とされている。
板屋兵四部の業としては一辰巳川水のか.高松町の長柄用水の曲尺を取ったという記述もあるが,これ以外に彼の生涯を伝える明確な記述はまったくない。
その後は処刑されたという話も、または下村兵四部と名を変えて能登や越前越後で活躍したという話も諸説ある。(農業土木学会誌より)