古民家のテーマパーク白山麓民俗資料館はこんなところでした(石川県白山市白峰)

白山市白峰村、恐竜パークの近くに「白山ろく民俗資料館」という展示館があります。名前から察するに田舎によくある古道具を並べただけの小さな建物を想像してしまいますが、実はこの施設、ちょっとしたテーマパークではというくらい広く古民家が立ち並び、すべての家は自由に入ることができます。古い急な階段をロープで登ったりとちょっとした忍者屋敷気分の、なかなか面白いスポットです。

アクセスと駐車場と料金

地図

名称石川県立白山ろく民俗資料館(イシカワケンリツハクサンロクミンゾクシリョウカン)
定休日毎週木曜日(木曜日が祝日の場合は開館、翌日休館)、冬期休館(12月11日~3月9日)
営業時間9時~午後4時30分まで(入場は午後4時まで)
営業期間9時00分〜16時30分(受付16時00分まで)
駐車場有り(無料)
料金個人:大人400円、小人250円団体(15名以上):大人350円、小人200円
住所石川県白山市白峰
TEL076-259-2665
公式HPhttp://www.urara-hakusanbito.com/spot/view/270

入り口と駐車場

国道157号線の看板を入る

金沢市内から白山市旧白峰村を通って福井県勝山に抜ける国道157号沿いに案内看板がありますのでそれに従い入っていきます。

駐車場は広くトイレもすぐ横にあります。

展示館の入り口で料金を払えば後は自由に村をまわれる

入り口の左手にまず展示館がありますのでそこで料金を払います。大人260円と県営施設らしくかなり安め。恐竜パークのチケットなどがあればさらに割引とのことです。

六角休憩所

入り口横の休憩所

入り口展示館の反対側には休憩所があり村の景色を眺めながらピクニックも出来ます。横にトイレもあるので便利です。

村の様子

休憩所の階段を降りると昔にタイムスリップしたかのような村の風景。なんとすべての家に自由に入ることが出来ます。村人になった気分で散策を楽しみましょう。

概要と白山麓地域独特の出作り風習

散策の前に知っておくと面白いのは「出作り」というキーワード。

ここ白峰村を含む白山麓18ヵ所村と呼ばれる村々はかなりの豪雪地帯で昔は交通も不便な場所であり、人が定住するにはかなり難しい場所でした。

そこで雪のない春から冬先にかけてだけこの地域に住み、雪が降り出すと里(母村)に戻るというスタイルが定着しました。これを「出作り」といいます。

つまり、これらの古民家はすべて「出作り」の時に使ういわば「別荘」だということです。(時間的には母村にいる時の方が短いのでそちらが別荘という感覚だったのかもしれませんが)

「出作り」においては農業はもちろん、養蚕(ようさん)、製炭、植林などが行われました。また、報恩講などの信仰や独特の婚姻葬儀についての独特の風習も存在しました。

そんなちょっと特殊な家々と展示をこの場所では見ることが出来ます。

杉原家の巨大はしご

杉原家の巨大はしご

入り口から最も近い、「杉原家」は木造3階建て、延べ床面積300坪の超巨大古民家です。うらにかかっているクリの大木を2つ割りにた大梯子はこの村のシンボルともいえます。

杉原家大広間

"桑島の旧家で江戸後期には酒造や大規模養蚕を多ない、白山麓の村々に日用品を販売し、金沢や福井へ生糸や織物を卸すなど手広く商いを行っていた。"

階段は急なのでロープが取り付けられている

"民家としては県内最大で1864年、永平寺大工「大久保政吉」によって建てられた。"

杉原家2階 たくさんの生活用品が並ぶ

"国内有数の豪雪地のため、太い材料が使われ、2・3階は養蚕のために、梁や天井を低くしてあるが、座敷や仏間は岐阜の郡上檜を使用して贅を尽くしたつくりになっている。"

136kgの荷物。ボッカ(歩荷)が背負った

"また杉原家は代々「助五郎」と呼ばれ嶋村で組頭を務めて、幅広く商業を営んでいた。"

杉原家正面

織田家 昔のコンビニ?

織田家は杉原家の正面に位置します。正面から見てピンと来るかも知れませんが、こちらは商家でその場で生活用品の販売を行っていました。

商家 織田家

正面右手には商品の陳列やタバコの価格表などがあり当時の様子が思い浮かべられます。

今で言うコンビニ?

茶屋も兼ねていたので旅人やボッカは必ずと言っていいほど立ち寄って、豆腐・田楽・煮豆餅を食べながらコップ酒に舌づつみを売っていたのだとか。

昔のタバコ小売定価表

表側は店舗になっており、左手奥には豆腐などの食品加工の為の道具や、「まき落とし」と呼ばれる、ばい木を2階から落とすための穴、「塩庫」と呼ばれる湿気よけの保管庫が展示されています。

織田家襖絵

織田家の座敷と仏間の間の襖絵は、加賀藩の絵師「村東旭」が描いたものです。

裏の縁側からの風景

最大規模3階建て永住出作り農家 長坂家

長坂家は少し離れている

長坂家は坂を下って村のちょっと離れた場所にあります。

地蔵堂

途中に小さな小屋がありました。「地蔵堂」だそうです。中にはお地蔵様が安置されているのでしょう。

長坂家 まるでキノコの家

キノコ状の藁葺きの建物が並びます。出作り農家としては最大規模建てと言われている長坂家です。当時は鉱山経営や木j剤業、養蚕、山わさび栽培、製炭、植林などを行っていました。

長坂家囲炉裏

ジロ(いろり)には面白いしきたりがあります。ジロの4方には誰がどこに座るか暗黙のうちに決まっていて、その名称もつけられていました。

2階への階段

左手向こうよりヨゴザはオヤジの座、ナベジャは姑の座、スエジャは嫁子供の座、オノコジロは長男や来客の座。オノコジロの下にはモロ(室)が掘りこまれているとのこと。

長坂家2階

この座席を巡ってナベジャに嫁が初めて座ることを「ナベジャする」「ゴロギャもらった」といい、主婦権を象徴するものだったとか。

ボンサマのイリグチ

"山間の出入り地で葬儀や法事、報恩講のため坊様に出向いていただくのは大変もったいないことで、丁重にもてなされる。家族の玄関や便所に坊様を入ることは無作法であるというので、ボンサマのイリグチ、カミセンチ(坊様専用の便所)を準備した。カミセンチのない家では杉の丸太と杉皮でカミセンチを仮設した。"

小倉家(こぐらけ)

小倉家

他の建物は「県指定有形文化財」になっているのに対してこの小倉家は「国指定重要文化財」となっています。

入り口

"小倉家は半世紀に嶋村で代々庄屋を務めた旧家である。"

いきなり便所 使用禁止

"建物には江戸中期頃までの古い手法が随所に見られ、部材はほとんどが手斧仕上げになっている。"

古い建築手法が随所に見られる

"鴨居は付樋端という桟を打ち付けて溝を作る珍しい構造で座敷には床の間の初期の形式と言われる押板(おしいた)がある。"

付樋端

"寝床の囲炉裏は炉端の原型と言われ、二階は養蚕の為に登り梁になっている。また建物全体が土蔵造りで火事に強い構造となっている。"

小倉家の壁

表家 寺院的建築の道場

表家

表家は外見は民家ですが、浄土真宗寺院形式をもつ道場となっており、宗教的な色合いが強い建物です。

表には半鐘が

玄関上にはそのシンボルとも言える半鐘と板木がかかっています。

横の蓮池

尾田家(びたけ) 現存唯一のナバイ小屋

尾田家 地面まで藁が伸びているナバイ小屋

ナバイ小屋というのは屋根の根葺きが地面まで届いていて居住空間を広くとった構造。尾田家は石川県で唯一現存するナバイ小屋です。

住人が

現白峰から8kmも上流の五十谷地内で幕末から百年に渡って永住出作りを営んでいたそうです。

となりのカツタリ小屋

となりにはカツタリ小屋がりました。カツタリ小屋カラウスの人が踏む部分に水槽を取り付けて水を利用して臼の中の穀類などをつく装置のことで、アワや米を精白するのに使っていたそうです。水車よりも必要水量が少ないのだとか。

展示館

展示館入り口にいるボッカ

展示館の様子

受付横の展示館内にはビデオやスライドを始め、農具や生活用品、風習についてなど様々な展示がされています。

白山麓18ヵ村と出作り

18ヵ村関係図(クリックで拡大)

白山麓18ヵ所村とは瀬戸・女原・二口・五味島・釜谷・鴇ヶ谷・深瀬・下田原・島・風嵐・牛首・杖・小原・丸山・須納谷・新保、尾添谷:荒谷・尾添の18村の事を指します。

上の並びで言う瀬戸から牛首までを東谷、以降を西谷と呼びます。

天領であったと言われているのは幕府直轄であったという意味で、加賀藩・福井藩との間の所属巡りの争いから、直轄となった経緯があります。

出作り戸数の移り変わり(クリックで拡大)

出作りというのは2種類あり、最初に書いたような雪のない季節だけ山にこもる「季節出作り」とずっと山に定住する「永住出作り」があります。永住するなら出作りと言わないのでは?と思ってしまいますが、あくまで母村があっての上での出作りかどうかと言うところなのでしょう。

出作りの産業

戦前の出作り分布図(クリックで拡大)

産業としてはまず焼畑農業があげられ、山の斜面などを切り崩して焼いて、年ごとにヒエ・アワ・アズキの順に輪作を行い、最後に30年後くらい放置して土地の回復を待つというなんとも豪快な作り方をしていました。また同時に桑も栽培し、養蚕のエサにしたそうです。

戦後の出作り分布図(クリックで拡大)

その後も絹の相場変動により製炭が主になりますがそれも昭和の燃料革命で衰退したそうです。

他にも織物などの商品生産や狩猟なども産業として行われていました。

出作りの若者文化

子供の遊び道具

"男子は15歳(数え年)になると若い衆(若者組)に加わり、屋根ふき作業に出役しても一人前に扱われた。女子は18歳になればカネをつけ歯を黒く染めた。また男女とも15,6歳になると、コヤドと言って町内の遊びに行きやすい家に集まり、雑談とかホービキ(くじびきの一種)と言う遊びをしたり、時には酒をのんだりした。これが若者の唯一の楽しみだった。またバンモチといい、体力づくりと娯楽を兼ね、重さ20貫(75kg)位の石を持ち上げて競い合った。"

オハグロ 鉄で作る(!)

"女性は成人するとオハグロをつけた(カケツケ)。鉄を焼き、茶の中でフシの実などどとも煮込む。そrをお歯黒壺に入れカケツケボウで歯につける"

出作りの婚姻

嫁入りの様子

"一般に婚姻は非常に簡素で隣人も知らない間に嫁に来ていたということが少なくなかった。狭い村のこと、恋愛結婚もあったが、どんな場合も仲人を通じで話を進め、縁談が成立すると仲人が娘方へシメザケ(結納)の称して酒2升を持っていく程度のものであった。"

簡素な嫁入り道具

"ヨメドリの祝儀は時に寄って樽引きという変わった行事も行われたが、多くは嫁がみずからタビノかドウランに仕事着やクワ、カマを入れて背負っていき、家族や親類が集まって酒を酌み交わすくらいいのものであった。嫁入り日は普通、春の八十八夜の日で「八十八夜に新笠かんで嫁入りする」と言われていた。"

出産

出産

"昔は現在のように病院で出産するというようなことはなく自宅で出産することがほとんどであった。それも横に寝るのではなく座り産といって座ったままで出産したものであった。生まれた子供は1ヶ月もすればイズミに入れて育てられた。このイズミには藁や竹・木の革で作ったものがああり、この底に灰、藁、ボロ布を敷き、その上に子供の尻を捲って座らせた。そして子供がはいださないようにヒモで腰に縛り付ける。親たちが仕事に行っている間、子供はイズミの中で成長していった。"

葬儀

葬儀

"この地方では人の死に関しての俗信が少なくなかった。遺体は北枕にし手足を曲げ、遺体に魔性が入るとあるき出すというので遺体の上に古くなった小刀、鎌と言った刃物をのせた。ネコは絶対に近づけなかった。ネコの性が入って遺体が動き足すと言われていたからだ。また遺体の側で泣いて涙が架かるのを忌みた。これは遺体が焼けないからだといわれていた。"

蚕の模型

"また蚕飼の最中はシビトヤキ(火葬)は蚕に悪いと信じられ、ウズンダリ(埋葬)あるいは遠い方のサンマイ(火葬場)でシビトヤキをおこなった"

ツキノワグマの剥製が迫力

参考リンク

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