加賀松根城跡は車で行ける石川と富山の県境にある好展望スポット(石川県金沢市松根町)
石川県金沢市から富山県小矢部市に向かう峠である内山峠が通る国道359号線。北側の国道8号線とは異なりトンネルもなく景色も良いのでドライブにはこちらがおすすめです。
その県境があるのが内山トンネル内。そのすぐ石川県側手前から入れば石川と富山を広く見渡せる好展望スポット、松根城跡があります。
ゴルフ場の看板が目印。実は内山峠を超えた富山県側からも登れますが、ダートな上に眺めも良くないので石川県側から入ることをおすすめします。
右手に広がる金沢市の眺めを楽しみながら進むとすぐに看板があるので左折。松根町に入っていきます。
ゴルフ場の目立つ入り口が見えたら松根場はすぐ横です。
本丸は徒歩ですぐに登れます。下段はトイレや東屋もあり展望を眺めながら休憩もできるようになっています。
ぐるっとと囲むように周遊路になっていますので景色をみながら散歩できます。
松根場跡は香登越中の国境、砺波丘陵の最も高い尾根筋である標高308mの山頂部を中心に造成された南北440m、東西140mほどの山城跡である。主郭(最も大事な平坦地)や土橋などで結ばれた平坦地、それらを囲む堀や城の北端と西端を遮断する大堀切によって構成され、防御的な出入り口(外枡形虎口)や馬出を設けてされに防御力を向上させている。
幅15m、太さ差3m前後の大堀切が加賀側に認められることから、前田方からの侵攻に備えた佐々成政方の築造もしくは改修を示しているものと考えられる。
東方に砺波平野、富山湾、立山を、北方には能登半島、西方には朝日山城跡、その向こうには河北潟、金沢平野、日本海を一望できる。
その歴史は寿永2年(1183)、木曽義仲が布陣したと伝え、ついで南北朝の騒乱では「松根陣」の名が見える。また長享2年(1488)と天文19年(1550)に加賀の一向宗徒が布陣したと伝えている。
発掘では、礎石に夜城門が見つかっている。出土遺物では、16世紀後半の土師器皿や越前焼、珠洲焼が代の年代を示しており、他に、9世紀頃の灰釉陶器や13から14世紀ごろの土師器皿からは、この場所が加越国境の要衝として古くから利用されていたことがわかる。
加賀国と越中国をむすぶ国境沿いの街道にはいくつも山城、加越国境城跡群が築造されていた。その歴史的背景には、織田信長亡き後の天下統一に向け、天正12年(1584)、羽柴秀吉と敵対した織田信雄・徳川家康連合軍が終わりの小牧・長久手で争ったことによる。
前年の賎ヶ岳合戦の後、秀吉に降伏することで越中にとどまった佐々成政は、これを機に反秀吉へと方針転換し、秀吉方の前田利家と敵対した。
成政は8月に朝日山城を攻撃した後、9月には末森城(宝達志水町)を攻めるが、次第に前田勢が優勢になり、秀吉遠征軍の登場によって成政は降伏した。
この後、越中の西半分が利家の長男利長に与えられたことで、加越国境付近の緊張状態は解消され、城跡群は不要になったと考えられる。
約400年の時を超えて現在に残された城跡群の構造が、すでに味方がなく孤立した成政と秀吉の援軍を待つ利家の政治的状況を示している可能性が考えられる。
小原越とは現在の金沢市吉原町で北国街道から分岐し、宮の町から切山城跡を通り、松根城前の峠を超えて小矢部市朝地にいたる脇街道で、古くから利用された道である。沿道には山城跡や石碑など、中世らいの歴史文化遺産が点在し、往時の面影を今に伝えている。
小原越との関係については、大堀切によって切断された尾根筋で旧小原越と考えられる道跡を発見したことから、大堀切で遮断されていることが明らかになった。この発見によって加越国境城跡群を検討する際には「街道封鎖」を念頭に置くことが必要となり、日本城郭研究において一つの新たな視点を示すことが出来た事例と言える。
城跡群は広範囲に分布しているが、金沢市場には小原越の切山・松根、二股越の高峠・荒山、田近越の朝日山の各城郭が所在している。城跡を比較すると、推定佐々方城跡は規模が大きく、高度な縄張り技術を駆使しているのに対して、前田方の城跡は規模で劣るものが多いと言える。秀吉は成政が山(加越国境付近か)を占拠したからといって軽率な行動は慎むように利家に厳命している。
営業時間 | 24時間 |
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駐車場 | 無料 |
住所 | 石川県金沢市松根町 |